江戸時代の燈籠
「平林惇徳 書」とあり宝暦十年(1760年)に建てられた燈籠という事がわかります。
石碑等に彫られている篆書体はほとんどが小篆であるのに、これは大篆で彫られています。
写真ではわかりづらいかも知れませんが、深く彫られていて力強さを感じる事が出来ます。
起筆と終筆は尖っており、小篆に比べより古い味わいを感じさせる珍しい石碑彫刻です。
落款印以外の実用的な印章とはあまり関係ないと感じられるかも知れませんが、大篆の実務印章も明治時代中ごろまで彫られていました。
今でこそ中国の貴重な資料をいろいろな媒体で見る事が出来ますが、この時代は辞書一つにも苦労したはずです。
昔の人がどの様な辞書を参考にしてどういう考えで字の形を作り上げて彫刻したのか、などあれこれ想像するのが私は好きです。
現在でも篆書体は書家により多くの優れたものが作られていますが、不思議と現代のものは「上手だな」という事位しか私は感じません。
「古ければ何でもいい物なのですか?」と言われてしまいそうですが、電子メディア、電動工具など無く、石の運搬一つを考えても苦労があった
であろう古き良き時代の作品は見ているだけで癒されます。
もう一つはこちらですが
とある燈籠を見たくて
上野公園に行ってきました。
2つあるのですが、こちらは日影で字がよく見えません。
蓮の葉が美しい不忍池では釣りが禁止されているので大きな鯉が悠々と泳いでいました。
すぐ前に出店があり・・・
上野公園といえば西郷さんの銅像が有名ですが目的は不忍池にある弁天島です。
順番は前後しますが島の弁天堂前です。 「不忍池は琵琶湖に見立てられ弁天堂を作られた」とあり、その名の通り銅製の琵琶です。 その土台に落款が彫られていましたが、印文は擦れて読めませんでした。
墓石を写真に撮るのはよくないかも知れませんが
無念に散った彰義隊の勇者を称える意味で撮ってきました。
草書体で彫られている墓石の文字は「戦死之墓」と書いてあります。
流れるような素晴らしい草書体です。
上野の山に戻りこちらはあの彰義隊の墓です。 刻字を見ますと昭和5年のものであるのがわります
写真と同じ向きで上から「之衣方半」下「蔵幘生仙」と彫ってあります。
他の書体と比べて筆圧が無いですが、篆書体が実際に使われていた時代はは筆書き
ではありませんでしたので、これは本来のあるべき姿なのです。
こちらは比較的新しい石碑だというのは石の状態でわかります。
新しいと言っても明治31年ですので充分古い石碑ですが
かわってこちらは小篆が美しい石碑ですが、表の半分以上が剥がれてしまっていて建立年がわかりませんでしたが、書法などから古い石碑である事は間違い無いと思います。
火災の被害に遭った墓石はこれに似た感じで剥がれてしまう事がありますが、私は石碑の専門家ではないので勝手な判断は禁物 という事で時代はわからず。 (弁天堂は昭和20年の空襲で焼失)
中央右上は「靄(モヤ)」という字ですが、右下の部分が一旦左に寄ってから右に反れています。
篆書の字林を見ただけではこの様な形は載っておりません。
個々の形、全体のバランスを考えて彫られたものだと思いますが、この一字だけをピックアップしても当時(年代不明とはいえ)の作者がどの様な考えをもって崩しをしたのか興味津々です。
しかし、邪魔者扱いされても来た目的を果たすために裏に廻り何とか見てきました
公園はJR上野駅の目の前です。
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